沢村澄子2026 “eternal moment Ⅲ” DMを公開いたします。


場所:ギャラリー檜e・F
会期:2026年1月29日(月) – 24日(土)
開廊時間:11:30~19:00
※最終日は17時まで
美術 評論家 平井亮一 全文
沢村澄子の書・補註
何年か前、沢村澄子さんの作品展「以呂波 宇太」のおりにすこし考えたことがあります(「単独なるもののゆえん」 ギャラリー檜 2015年)。その前の個展でこの書家の仕事を初めてみました。このたまたまの出合いは、「画面いや紙面にみなぎるものの眼ごたえとでもいうほかないたしかな筆墨」の現前といったもので、これを眼にくっきりとどめたのです。そのことにまつわるあれこれを、上述のリーフレットで自問自答をこころみることになりました。
日頃から書にうとい身には、眼のまえの大紙面に開けるなにかえたいのしれない墨痕が書なのか絵なのか種別形式など意味をなくす別のものの存在におもえ、それならこれはいったいどういうことなのか。この素朴なおもいにうながされとつおいつ綴った短文でしたが、韓国ビエンナーレ出品(2025年8月30日~10月31日)など沢村さんその後の旺盛な仕事について、浅見にこれ以上つけ加えることはおもいうかびません。それで、すでにさまざまふれたなかで、筆もつ身体にまつわる意識の様態など迂曲にすこしこだわることにしました。身体を張った大作ばかりでなく珠玉の小品にいたるまで、筆持つこの書家の身のこなし、その自在な動勢がまず伝わってくるからです。
いつだったかユーチューブ動画をみたおり、沢村さんが床上の大判紙にむかいタオルかバスタオルのようなものを両手で握り、おのずから唸りになる声、それがひくはげしい息づかいを耳にしました。これらが書字墨痕の様態に呼応するように墨が跳ね、浸透の漆黒と滲みがしるされてゆきます。立ち合ったひとびとはこうした経過をありありと目にしたはず。このまさにパフォーマティヴな墨筆の振舞いが、筆先をかえときには紙面にとどまらず、木板、段ボールはおろか、色風船の表面にまでおよび、墨痕の場所は日常の空間や物品にまでひきのばされます。そしてそこにはいつも、満を持したこの書家の身体が息づいています。
そのことからわたしは、身体、それと紙だの物品とのかかわりというより、そのへだたりを軸に考えてみようとおもいました。いいかえれば身体と物との結びつき、それとは裏腹の絶対的で融通無碍なへだたり、といったことです。「もの」と「こと」の本来の空き間、裏をかえせば物と観念との日常的な結びつきやかかわりの恣意性、偶然性です。そこに身体がからみ、なんらかの行為つまり物を取りあげるなどすればとりあえず双方のかかわりが生まれますが、そうでなければ物とは永遠になんのゆかりもないことになります。
じつはこうした身体と物との本来の疎隔を埋めるいわば驚くべきひとつの契機を筆者自身まざまざと意識する、そう、まさに意識することになりました。他の機会にも書いたことですが、バカじみたはなしで、かつて物理学者エルンスト・マッハが椅子にすわった自分の目前を胸許から靴の先までスケッチした図版で、当然ながらそこには描いている手許のスケッチブックも描かれていました。注意したいのは上部の暗い幕にしかみえない自分の目蓋の内側も忠実に描かれていることで、これはこのスケッチが描き手のそのときの眼に映るかぎりの自意識を写しとっているわけです。スケッチする主体による主体の同時スケッチという奇妙な記録図版、これをたまたま拡大鏡でのぞいたとき、スケッチブックをもつ手許の感覚がよみがえってそれが腕をつたわる瞬間、そこに実際にわたし自身参入する意識が開けスケッチと重なってしまうのを経験したのです。この妙な感覚はしかし、快いものでした。あきらかに、スケッチブックとのあいだで意識が腕を通し往還するのを感じたのです。これをよく知られている「キアスム」、あの「見る」「見られる」の相互交差関係で説明するより前に、スケッチを同時スケッチするという二重の構えに眼をむけるなら、スケッチブック介在というアクションの描出なしではこのように身体をとおして意識へと開ける体験と契機にゆきあたることはなかったでしょう。これは描くことの自覚、ものごとを写しとる意識に通じ、ひいてはこうしてあらためて紙面など物とかかわることのあきらかな意識つまり媒体とその場所のたしかめを意味します。特殊な領域ながら美術などで物と身体はひとつにはこうして結ばれるのだとおもいます。いずれにせよ、かかわりには身体のなんらかのアクションがなければなりません。
むろんこんな理屈で沢村さんが仕事をすすめているわけではありません。しかしこの書家の並はずれた筆運びには、因果といえるような必然性があります。それは、ひとを圧倒する墨跡ばかりでなく、この書家の文藻の動勢をともなう巧みにも底流しているものです。たとえば奥村土牛を筆頭に名だたる人びとの書跡を自在に評した沢村さんの「この人と書と…」(『墨』連載 2019-2020年)を読んでも、ことばをうながし充溢する書き手の身体性が虚をつくような断定にみちびき、読者の意識を観念にとどまらない体得へといやでももってゆくようです。知見に事欠かぬ措辞に「実存」「息」「イノチ」といったことばが散見するのもそのせいでしょう。
もとより、物と身体と、墨だの紙だのといった物と手など身体と範疇のちがい、ひいては「もの」と「こと」の空き間を埋める当のアクションが、沢村さん固有の媒体の場を出来させるとき沢村さんの熱いアクションにともなって、物と身体とをつなぎ往還する意識もまた独特な様相を紙など物にとどめることになります。目はその様態をみとめながらさらにそこに意識をあつめ進むでしょう。このできごとはアクションの進行につれて字母も字形も変容を重ね墨痕の自己参照へとひたすらにむかうようです。この媒体の場所での熱いできごとこそ、そこへと意識をもってゆくというある種の解離、意識のポジティヴな解離の出来にほかなりません。当事者はそこに無上のよろこび、むしろ快楽をみいだすでしょう。これは結果様態のたんなる美醜をこえた、未必の暗い否定性をもはらむ高揚、憑依の相です。そしてこのような事態はもともと、しかるべき媒体とその場所とのかかわり、その自覚なしではありえないことでした。
ところで、沢村さんはたとえば西田幾太郎の書にふれ「観念的な線と実存としての線」のちがいを指摘しています。筆にかぎらず指でも、タオルでも、ときにはペットボトルでも、手だてにこだわりなくあくまでも文字を、墨痕にとどめる紙面で墨が日時ととも物質としての変容をみせるその移ろいにさえ「生」をかいまみ、「一期一会」の「時の花」と観ずるなどの応対は、やはり個の存立へのおもいにかけて「実存」的というのはふさわしいでしょう。沢村さんのそんな実践でアクションつまり身体の関与の度合いがすすむほどに媒体とのかかわりにこうした意識がよりつよく解離し、自己参照するようにその密度を高めてゆきます。そのきわまったところは、もはや書も画もない墨痕様態の複雑なあらわれであり、ひとは書の規律側からの反目をも包摂するそのれっきとした存在形式を目のあたりにするはずです。かたちならざるかたち、しかしその強度はこうしてそれじたいの形式をまとうのです。ある意味でそのたたずまいは、ジョルジュ・バタイユ流れの「アンフォルム」、非形をほうふつさせないでもありません。
沢村さんのとりわけ大作はそうした実践で、これとの当面、これがわたしたちにとどめる知覚の現実は、げんに書も画もない意識の解離・共鳴へと観る者をも誘いつづけます。それはそれとして一方、紙や墨など物と、相応のアクションをとおして身体とかかわるのをみるという媒体の場所で、物と身体を往還する意識におよぶ条件次第、微妙なゆらぎが避けがたいとすれば、墨痕の自己達成と高揚の極まりはその後どんな様相へとむかうのでしょうか。そして書は…